風吹く窓辺

諸事情により急遽転居することになった私が、新しい住処に移ったのは緊急事態宣言直前の3月である。同じ東京多摩地域内の引っ越しとはいえ、外出自粛が叫ばれる直前に暮らす街が変わったことは、個人的に大きな変化だった。新鮮な朝の光と過ごすまだ何もない部屋。振り返ればこの十数年、家で落ち着いて食事をとる間もないくらいに私は忙殺されていたと思う。

 

見慣れない「窓」からの景色は、連なる屋根の向こうに雲の群れや連峰が広がり、朝から昼、そして日没へと静かに変化してゆく大気の色彩が味わえる。何ものにも消費されない豊かな美しさ。その無為な瞬間は、日々の生活の余白にインスピレーションの恩寵を与え、魂のなかでモチーフが発酵するプロセスというものを私に憶い出させてくれた。それはこの東京での創作活動の中で、久しく失っていた感覚でもある。

 

数年前から、私は長年両立してきたアーティストとしての活動とアルバイトの両輪生活に区切りをつけ、ワークショップや舞台公演のみの活動形態に生活をシフトさせていた。だから自粛要請による突然のパブリックな文化発信の停止は、私にとって生き方そのものを強制的に喪失することにもなった。もし世界が終わりの時を迎えても、舞台活動は決して止まらないと信じ込んでいた舞台人は(この言い方が正しいかはともかく)少なくないと思う。

 

私も例外なく、予定されていた公演、海外ツアー、ワークショップ企画などほとんどすべてのプロジェクトがキャンセル・延期を余儀なくされた。

劇場という場がその存在意義を根底から覆されるような状況を目の当たりにし、同時に、これまであたり前に利用していた公共スペースも閉鎖となった。どこでダンスの場を作るのか、身体に向き合う空間をこれからどこに見つけるのか、世界中のダンサーたちが、それぞれの身体づくりの場と、その発信方法を模索した。

 

そのような状況下、2020年という時代の産業、ICTや移動通信システムの発達によって、多くのオンライン動画・配信企画が生まれたことは、ある意味必然なことだと思う。オルタナティブなイベントもメインストリームの興行も、コンサート、舞台公演、ワークショップ企画、これまでリアルだった現場のことごとくが、オンライン配信か、あるいは延期、中止かで揺れ続けた。

 

私自身の活動でいえば、2020年9月に予定されていたCORVUS主催の公演だけは、必ずライヴのみで上演することを決めていた。たとえ再び緊急事態宣言が発令されようと、あるいは劇場が閉鎖される事態になろうと、決められている公演日、決められていた時間に必ずどこかでこの作品を上演すると。

 

自粛要請によってスタッフや共演者が揃わないことも想定され、多額の負債が生じることもあり得る。しかし、自分たちの意志に委ねられている主催公演を中止・延期、またはオンライン配信するということは選択肢になかった。

 

「誰も観ていなかろうと、今、世界のどこかで上演されているということに、どこかで誰かが想いを馳せるなら、それ以上に純粋な身体と世界との関係性はない」と考えたからだ。

 

だから、粛々と新作公演の準備を進めた。川沿いの桜並木の凸凹道を散策しながら身振りを発見したり、新居の屋上で雲の下のダンスを探ってみたり、あるいはCORVUSの相方とひたすら言葉と身体による対話を行なったり。それは身体に向かい続けようとする意志として、緊急事態宣言下であっても創作活動を止めてはならないという直観があったからだ。

 

 

 

「この身体と世界とを純然とつなぎたい」と思わせる意志が、どこからやって来るのか。

ここから以下の文章は、その意志の源泉を辿ったものである。もし「世代の身体」というものがあるなら、私と同世代の人には何かしら共有できる感覚があるかもしれない。

 

 

 

1980年に生まれた私は、ある意味オフラインからオンラインへの境域を跨ぎながら成長してきた世代だ。

バブル前夜、高度経済成長を果たし、どこか浮ついた空気の向こうに、東西冷戦や核戦争勃発の危機を嗅ぎとりながら過ごした幼少期。

1986年のチェルノブイリ原発事故後の空には、この世界がたった一発の核弾頭の発射スイッチによって滅びるかもしれないという、透明なリアリティがあった。

まもなく訪れる世紀末の黙示録的な空気を吸いつつ、まだ魂の感覚が優位だった90年代の日常。内面が透かし見えるようなあの頃の若者たちの眼には、恥じらいながらも未知を夢見る余地が残されていたように思う。

次第に情報化時代へと変わってゆく社会のなか、ネット黎明期のテクノロジーを享受しながら、21世紀へ足を踏み入れた私たちは、9.11アメリカ同時多発テロ、イラクへの報復戦争といったテレビの向こう側で動いてゆく世界の傍観者となった。そんな空気の中、私は生まれ育った仙台の街で、暴走族をやったり詩を綴ったりしている生活から一転、オイリュトミーの道に進もうと天使館の門を叩いた。私にとってそのはっきりと手触りのある日々は、昭和から地続きの細胞感覚のなかに確かなものとして思い起こすことができる。

 

決定的な分岐点となったのは、2011年3月11日。東日本大震災とそれに続く福島第一原子力発電所の爆発事故である。

 あの原発の建屋が吹き飛ぶのと同時に、戦後日本人が目を背けてきた虚偽と矛盾の歪みが一挙に裂けた。突如あらわになった近代化の犠牲の在りか。それは戦後復興期の日本人の原罪を暴露しただけではない。現代文明の光だけを浴び、その影を傍観し育った私たちの無知をも曝け出したのではないだろうか。

この3.11を契機に、私の世代の多くは初めてこの社会の仕組みと対峙させられ、自分の人生の生き方を根底から問われたのだと思う。

 

その影響の一つとして、欧米に遅ればせてSNSが日本でも急速に一般化されたことは大きい。ニュースソースがテレビ・新聞からソーシャル・メディアへと変わってゆき、個人が多様な情報を発信・シェアするグローバル情報化の時代となった。

史上初のアメリカ黒人大統領が誕生した2009年、就任直後のオバマ氏はApple社製iPodを手土産に英国エリザベス女王を訪問している。そのコマーシャル性は新たな時代を新興テクノロジーのイノベーションによって牽引するという、世界への鮮烈なメッセージにも思えた。

それ以降、日本でもiPhoneの普及によって人と社会とのつながりはSNSに向かい、人間関係のなかにAIが介在する時代が始まっていったのは偶然ではない気がする。そうして911、311以降の世界は、その外観を広告代理店的手法によって簡単に偽装するようになったのだと思う。過剰な「情報」が世界を疑わしいものにし、以来、私たちの意識は真偽不明の「情報」に日々さらされるのが常態となった。

 

翻って2020年、このCOVIDー19によって引き起こされたオンライン化の世界変革の波は、これから私たちに何をもたらすだろう。

昭和、平成を生きてきた私の身体に刻み込まれた風景は、その姿かたちを徐々に消してゆこうとしている。

日本政府の令和二年度補正予算内訳を見ても明らかだが、ビッグデータ化・IOT化を推進する第四次産業革命の事業には莫大な予算が組まれ、その関連株価は今うなぎ上りだ。

今後は「モノ」がインターネットと繋がるIOT化から、さらに人間の身体感覚のオンライン化へと進むだろう。「新しい生活様式」が提唱するその先に、VR・ARが一般実用化され、ICTのイノベーションと共に、社会の仕組みや人間関係の形も変わっていく。「サイバネティック・アバター生活」「臓器間ネットワークのデータベース化」「デジタル遷都」・・・これらはSF映画の話ではなく、現日本政府の政策の文言である。

 

このCOVID-19がもたらしたテクノロジーの急進は、それぞれのジェネレーションにとって、その宿命とアイデンティフィケーションを再認識させる契機になっていると私は思う。

今、急速にリアルがオンライン化してゆく「境域の時代」にあって、昭和のアナログ時代から平成、そして令和へと、技術革新と共に成長してきた私たちの身体性とは何だろう。

もし「世代の身体」としての使命があるなら、「境域の時代」の不和と分断のクレヴァスに「魂の橋」を架けることではないだろうか。

私たちがそれを自らの身体の内でやらなければ、近い将来、人間はこの身体を捨てるだろう。なぜなら、10年後、20年後、生まれながらにオンライン化された身体と共に、いつもアバター生活があるジェネレーションの身体は、私たちが生きてきたあのオンラインのない世界、インターネットの存在しない世界とは全く異なる身体性を有しているだろうから。

 

突拍子もないビジョンかもしれないが、私はそう遠くない未来、かつて肉体と意識を純然と繋いでいた「生命の糸」が絶たれる時代が来ると思っている。そのとき、限りなく肉体を放棄し、人工授精によってオンライン上に誕生した人間意識にとっての「リアル」とはいったい何なのだろう。このCOVID-19を機に、ますます世界中のモノ、自然、情報、コミュニケーション、知覚体験のオンライン化がなされ、映画「マトリックス」さながら、やがて私たちの意識はバーチャルとリアルの境を失くす時代となってゆくのかもしれない。

 

黒電話からiPhone、ポケベルからSNS、オンラインゲームやzoomまで、テクノロジーの技術革新を跨いできた私たちが、この身体のなかでなせること。それは認識の橋架けである。

ポスト・コロナ時代、ポスト・オンライン化社会に向けて、「三つの異なる領域の知覚体験」の差異を認識し、言語化し、身体化することだ。

 

ヴァーチャル知覚

リアル知覚

イマジネーション知覚

 

人間の自我を必要としない「ヴァーチャル」と、自然界に働く地・水・火・風のエレメントと共にある物質的知覚としての「リアル」、そして、対象物をもたない「イマジネーション」の身体感覚。

この三つの知覚体験を言語化し、その分断を超克する。

テクノロジーに依らない内的な意志を通して、この三つの領域を渡る「魂の橋」をみずからの身体の内に架けるなら、それは分断した身体のクレヴァスに血と光を渡らせるだろう。

そしてこの意識化の橋架けが、COVIDー19によって現在なされているオンライン化プロセスの先に、身体を失いアバター体となる未来の人間意識を、自分自身の身体にリインカーネーションさせるための篝火となるかもしれない。

 

2020年に何が「変わってしまったのか」、そして「取り戻せない感覚」とは何なのか?

私は「今」にかかっていると思う。

歴史上もミクロ的な不可逆性変化は常にあった。

本当に失い、変わってしまうのは、身体と意識を結ぶ「生命の糸」を、人間が断ち切ってしまう時だろう。

 

 

 

〈追記〉

 

新しい「窓」に世界の変革の風を受けながら過ごした2020年。

そのなかで予感から確信に変わったことがある。

それは、来たるべき時代の身体を探究するための新しい「小屋」を、この地上に実現化させること。

この「小屋」を建てるヴィジョン自体は、私が以前からおぼろげながら心に描いていたことであり、この何年間かはその実現化に向け動き始めていたのだが、2020年は期せずしてその新たな場の胚胎期間となった。

その意味で、私にとって今回のCOVID-19とその影響による活動停止は、少しづつ形が見えてきていた「人間が身体に向き合うための新たな場」の在り方をさらに発酵させ、その必要性を再認識する時間になったと思う。

何ものにも消費されない無為な時間の中で、その雛形が形作られてきたことは、私の活動を変革させた最も大きなインスピレーションである。

 

 

 

 

鯨井謙太郒

 

 

 

 

 

※この文章は、KAORI ITO COVID-19 Archive Project  “내 리듬은 어디?~私のリズムはどこ?~”  〈covid-19以降の感覚の変化について探る/振付家によるアーカイブプロジェクト〉への寄稿文に推敲を加えたものです。