AIと自由と身体

デジタルテクノロジーなどの領域ではこれから2045年くらいまでの間に、おそらく人間と機械はその身体性における親和性を現在とは比較できないほどに高めるだろうといわれている。シンギュラリティ(技術的特異点)などと呼ばれる、人間の能力を超える「AI(人工知能)」の出現と、そこから生じるであろう未来的諸問題についての考察は、それ自体が人間の本性に対する逆照射となり、「意識とは何か?」「身体とは何か?」といった根源的な問いを私たちに投げ返してくる。

 

 

18,9世紀の欧米を中心に進められた産業革命を経て、エジソンやフォード、アインシュタインら偉人たちが発明したものは、人間の生活形態のみならずその精神性、その身体性をも変化させたといえる。フィラメント、自動車、原子力など、まるで超能力か魔法の時代の到来を夢想させるようなそれら近代ヨーロッパ文明の発明は、世界的なインダストリアルゼーションの動力源であったともいえようが、同時に人間の生命や意識をも機械的価値観のなかに幽閉してしまった感がある。かつてアントナン・アルトーをして「ヨーロッパはその分断された科学で自然を引き裂いてしまった。(中略)科学が我々から奪ったすべてのもの、蒸留器や顕微鏡や秤や複雑な機械のなかで分割してしまったもの、数値化してしまったすべてのもの、我々はそれらを自分たちの生命力を抑圧する科学から奪い返したいと熱望している。」と言わしめたように、近代欧米文明は、その合理的機械的価値観を中心に、人間の巨大なエゴイズムと融合した営利主義や技術革新至上主義に見るような新たな排他的文明を現代に出現させたといえよう。

 

そのような近代の歴史における世界的な意識変化の先に、いま、新たな次元としてあらわになりつつあるポスト21世紀的現象とは、はたしてどのようなものであろうか?

おそらくそれは、現象的側面においては、近現代のあらゆる価値観が、「モノ、物質」の次元から、量子的なデータベースの領域、あるいは、ポスト・ヴァーチャル空間における対象へと移行してゆきつつ、「AI」とともに共存する時代へと向かうことだといえるかもしれない。

 

 

近年、ニュートン力学やアインシュタインの相対性理論が、量子学、超弦理論などの現代物理学によってその世界観の更新をせまられたように、すでに「人間」対「機械」という対立構造がもはや前時代的発想となるほどに、「人間意識」を「機械構造」のなかへ限りなく融合させようとする時代がはじまっている。

コンピューターテクノロジーの分野においては、ハードウェアを「人間の肉体部分」に、ソフトウェアを「人間の意識」に例えて説明されることがあるが、次世代のイノベーションとは、機械・物体としてのハードの進化はさして重要でなくなり、それ以上に、いかにしてソフトを人間の意識、知覚、肉体と融合させるか、という次元でなされてゆくだろう。

しかしそれは同時に、人間意識を機械構造から作られる社会に適合させることでもあり、デバイスを身体化させてゆく現在のテクノロジー開発の方向は、今後さらにウェアラブル化、インプラント化していくであろうが、生活におけるモノがインターネットとつながる「IOT社会(Internet Of  Things)」は、やがて身体をインターネットとつなげ、さらには意識がインターネットと同期してゆく方向で生活圏を拡張してゆくだろう。

その時「人間」と「機械」の親和化は、ある境域を越えることになる。最近では、半人半獣のケンタウルスにも例えられる新しい人間像として、「人機融合」などという言葉もあるが、これはもはやSFやアニメの世界の話しにはとどまらない。拡張現実の技術が進めば、コンピュータ・グラフィックはヴァーチャル空間内に限定されず、あたかも「ポケモンGO」の進化版のような、「ネイチャー」と「ヴァーチャル」との複合現実(ミックスリアリティ)なる世界を増幅させることになる。そこでは直に手に触れられるモノとしての立体と、ホログラムや量子データとしての知覚体験の差異が限りなく消失してゆくだろう。そして、人体が属する自然界と、拡張化された意識としてのヴァーチャル界を直接的にミックスした有史以来存在したことのない新たな知覚世界が出現するといわれている。このことは必然的に、人間の生命、意識、社会に対する全的な変革をもせまるだろう。

 

事実、近現代の急速なグローバリゼーションから、世界的な超高度情報化へとその社会構造が変化してゆくなか、インターネットは、電気や水道、ガスなどと同様の新たな一つのインフラと化したが、このことは現実にもう一つのレイヤーを生じさせるとともに、これまでの歴史には存在しなかった仮想的・拡張的な新たな知覚世界を現出させたといえる。

それはつまり、かつてない「人間の知覚の変化」であり、「ポスト・インターネット」などという言葉も生まれている現在、この「人間の知覚の変化」、あるいは「物質性の変化」を前提にすることは、メディアアートの領域ではすでに一つのコモンセンスである。

 

映画『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』などの作者である押井守氏が、『イノセンス』という自身のアニメ映画についての本のなかで、究極的には「肉体」が不要な「電脳存在」になりたいというようなことを語っていたと記憶しているが、人間と機械が限りなく結合してゆくとき、それは「人機一体」という単なる物理的なフェーズにおける変化にはとどまらない。

それは映画『マトリックス』さながら、その「肉体性」を喪失した人間が、拡張してゆく「仮想身体空間」へと「リインカーネーション」してゆくようである。あるいはまた、ギリシア神話のナルシスや、グノーシスにおけるポイマンドレースの神話にあるように、水鏡に映った自分をみずからの本性だと思い込み、自己愛とともに堕落した「精神」が、さらなる無限迷宮、「鏡のなかの鏡」へとその身を投じてゆくようでもあり、それはあたかも人間本性の没落を透かし見ているようでもある。

 

 

、、、ところで、つい数十年前までは、西欧化とグローバリゼーションにいかに対峙するかということが、日本のみならず、あらゆる民族、国家、文化における喫緊の課題であったといえる。

昭和41年、作家・三島由紀夫と林房雄によって行われた対談のなかでは、次のようなやりとりがなされている。

 

林「僕は天皇制とか、大東亜戦争とか、これは日本人の歴史的宿命だと思っています。」

三島「その問題は林さんと僕は逆のことを言っている。つまりね、自由のイメージを求めるとしますね。僕の場合は、宿命ということばを使ったのは、インダストリアリゼーションです。それから日本の近代史です。それから20世紀的現象というもの。これは宿命ですよ。それをわれわれは、だれ一人としてまぬがれないし、日本人であってもなくてもまぬかれないことは当然なんです。(中略)だけれども同時に、そのインダストリアリゼーションに、絶対に巻きこまれないものがあってもいいじゃないですか。」

中略

三島「つまり僕にとっては、芸術作品と、あるいは天皇と言ってもいい、神風連と言ってもいいが、いろいろなもののね、その純粋性の象徴は、宿命離脱の自由の象徴なんですよ。」

 

『対話・日本人論』(夏目書房)

 

 

いまあらためて、ポスト・グローバリズム時代における世界の「歴史的宿命」について、あるいは、人間の「自由」について考えるならば、それは「人間」の「機械化」、そして「機械」の「人間化」という21世紀的現象を、いかなる観点から認識するかが重要であろう。

 

今後、「人間」と「機械」とのインタラクティブな関係性が、新たな次元の知覚領域において急速に実現してゆくことは間違いない。20世紀までの古典物理的なフェーズにおいては生じえなかった「人間」と「機械」との関係性が、「意識」の領域でお互いの本性そのものを変化させる方向に向かっている。

「トランス・ヒューマニズム」などと呼ばれるマイクロチップを内蔵した人体の行き着く先には、人間の意識とAIとのかつてなくインタラクティブな関係が生じてくるであろう。あたかもメフィストフェレスがほくそ笑んでいるかのようなその世界では、かつての「存在」「自然」「肉体」「生命」といった概念は更新されざるをえない。なぜならそれは、「存在」と「非在」、「ネイチャー」と「ヴァーチャル」、「肉体」と「機械」が、現在とは比較にならないほど親和した未知の文明の出現であろうから。その時、「ネイチャー」対「ヴァーチャル・リアリティ」、あるいは「人間」対「機械」という近現代的対立軸はおのずから消滅してゆくだろう。

しかるに、「来たるべき身体」を捉えようとするとき、この「人間機械化」の時代を歴史的必然であるとするならば、私はあらためて「人間の自由とは、人間の本性とはいったい何なのか?」ということを問いなおさずにはいられない。

以下にルドルフ・シュタイナーの『自由の哲学』より抜粋した言葉を。

 

 

「第十二章 道徳的想像力」より

自由な精神は自分の衝動に従って行動する。言い換えれば、自分の理念界の全体の中から思考によって直観内容を取り出してくる。

 

人間は具体的な表象を想像力(ファンタジー)を通して、理念全体の中から作り出す。だから自由な精神にとって、自分の理念を具体化するためには、道徳的想像力が必要なのである。道徳的想像力こそ、自由な精神にふさわしい行動の源泉である。

 

意志が純理念的な直観をもつことができる限り、この人間意志は自由と見做されねばならない。なぜならこの直観は、外から必然的な仕方で働きかけてくる結果としてあるのではなく、外からの働きを何も必要としてはいないからである。行為がこのような理念的直観の表現となっていると思えたとき、人間はその行為を自由であると感じる。

 

人間が自由であるのは、自分の意志の中に純理念的(精神的)な直観が働いている時の魂の気分を体験している時なのである。

 

「第九章 自由の理念」より

個的な人間の本質に属する道徳理念こそが道徳的世界秩序の前提なのである。(中略)個的人間こそが一切の道徳の源泉なのであり、地上生活の中心点なのである。国家も社会も、個人生活の必然の結果としてのみ存在する。

『自由の哲学』ルドルフ・シュタイナー 高橋巌 訳(ちくま学芸文庫)

 

 

来たるべき時代は、さまざまな領域において、人間の新たな身体性、新たな意識性を、いかに全人的観点から「道徳的」に捉えることができるかがもっとも重大な課題であるべきだと私は考える。ゆえに「身体」ではなくその「道徳的身体」を、「意識」ではなくその「道徳的意識」を問題にしたい。ここでいう「道徳」とは、時代や社会によって固定化された善悪の観念や、制度、法律によって定められているモラルではなく、究極的には、個としての人間の想像力と、人間の自由意志に結びついたものとしてである。それはまた、人間がいかにして無から有を生み出すことができるのか、という芸術衝動についての根源的な問いかけにまで通底しているであろう。

AIは「道徳的」でありうるか?AIは「自由」を獲得するか?AIは「想像力」を働かせうるか?AIは「愛」を認識しうるか?これらの問いはほとんど本質的な意味をなさない。いま問いかけるべきは、機械に対してではなく人間に向けてである。なぜなら、いまや人間の尊厳をことごとく無化してしまうブラックホールのような奈落へと、人間みずからが落ち込んでゆく時代であり、その存在の最後の局面に私たちは立たされているのだから。

 

ポスト21世紀、人間の身体が機械と融合してゆくとき、「意識」もまた人機の境域を越えてゆくことはまぬかれない。果たして、人間は機械にどこまでその文化を委ね、そしてその身体を捨て去ってゆくのであろうか。

この標べなき時代に、正しく人体と意識との結びつきの本質を認識しようとするなら、それはメヴィウスの輪のように表裏一体となった「人間の身体」と「宇宙」との最奥の密約に触れざるをえないだろう。

いったい、人機融合文明における道徳的身体、道徳的意識とはなんであろうか?

それは究極的には、みずからの存在の根拠に対する直観を、人間がその個体のうちに見出しうる力を持ち続けられるか否かにかかっている。

人間による「創造」の源泉に、もし「自由」への希求がないとすれば、あるいは、宿命、必然、強いられた状況に対して、それらを引き受け、そして超克しようとする内的な力が存しないと考えるならば、それは人間が人間みずからを堕落させる怠惰な態度であるといわざるをえない。現代における芸術的創造行為が、どこまで真の意味で「自由」に立脚した地点であれるかが、いま、切に問われている。

しかし、私は「自由」を人間が生来的に実現しているとは考えない。「自由」とはみずからによって獲得されるべきものであり、そのためには、人間の本性にふさわしい在り方でなされるべき二つの過程を必要とすると考える。それはひとつには、社会や自然や他者の力とともになされる、その誕生から個我形成に至るまでの「宇宙的他者教育」として。そしてもうひとつには、ひとりの人間が個我を形成し、概念的な思考力を獲得したのち、みずからの意志によってなされる「変革的自己教育」として。

人間は植物のように自然の諸力のみでは成長できず、また、動物のように種としての本能的な直観だけでも育成されえない。肉体そのものは親の「愛」がなくともその生命機能を維持することはできるであろうが、しかし、人間の魂は「愛」なくしては育たない。では、自然の「栄養」と「愛」があれば人間の自由意志は育つのであろうか?

思うに、現代における自由への衝動とは、教育者としての個的人間を通して注ぎ込まれる宇宙的想像力(ファンタジー)なくしては育まれないだろう。そしてそのファンタジーが、真の意味で道徳的であるとき、それは人間の内で「自由」を希求する萌芽となる。そのように育まれた個の魂が、生きた思考力としての概念世界に目覚めることができるならば、そのときはじめて人間は直観的にみずからの内に自由を予感するのではないだろうか。

そしてこのことは、人間の本性を理解しようとする態度、つまり、人間に対する全人的な理念を直観する者が持つ、人間自身への畏敬の念に支えられた「教育」によって成されるべきであろう。

 

 

だから、自由の実現への衝動を担った個我形成は「教育」なくしてはありえない。「教育」の源泉に「道徳」があり、「道徳」の源泉に「個」があり、その「個」もまた絶えまない「変革的自己教育」を通して人間の本性に向きってい続けるような在り方にこそ、自由の実現への道があり、そしてまた、そのような「自由」のうちに、機械と人間との越えられない境域が立ち現れてくるとはいえないだろうか。

その意味では、私にとってドストエフスキーの『罪と罰』も、マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』もひとしく「道徳的」文学作品であり、「道徳的」身体を有しているといえる。

私にとって、歴史上のいかなる悪も、それが人間行為であるならば、真の意味で「非・道徳的」あったことはない。たとえそこに悲惨と絶望と不自由を見ることはあっても、真の「非・道徳性」をいまだ見たことはない。なぜなら、いかに冷酷無慈悲で残虐の極みを尽くした行為であろうとも、そこには人間がいたからである。しかしいま、ひとたび超えてしまえばもはや二度と戻ることのできない最後の境域を、人間は跨ごうとしている。そこには、もはや人間は存在しないだろう。人間の身体は存在しないだろう。そしてもはや、人間の言葉が存在しないだろう。

 

 

古今東西、ミクロコスモスとしての人体と、マクロコスモスとしての宇宙との関係性を、コレスポンダンス・照応という直観によってとらえた人間観・宇宙観は数多ある。

はたして、人体において「人間」と「理念=言葉」との間の最も秘められた宇宙的結びつきを実現している部分とはなんであろうか?「言葉」と「身体」のもっとも肉薄している魂の器官、それは、人間の発声器官としての「喉」である。

この「喉」において、理念としての「言葉」が「声」となり、「声」はそのまま「動き」となり、意識と身体が限りなく結びついているといえよう。ゆえにこの「喉」を中心とした発声器官を形成した諸力のうちにこそ、来たるべき宇宙道徳的身体の原型、道徳的意識の雛形を生む力が存するであろう。その諸力とは、人間に言葉を語らせた原初の言葉であり、それは宇宙大の喉であろう。だから、この宇宙大の喉が、人間の発声器官に収斂されている。そして人間の発声器官から、正しく言葉が宇宙大に広がってゆくとき、新たな宇宙の活動がはじまるだろう。

このメヴィウス的直観のなかに、AI時代における人間の自由の可能性が残されていると確信している。

 

 

 

Mensch, rede,

人間よ、語れ、

Und Du

そしておまえは

offenbarest

開示する

durch dich

おまえを通して

Das Weltenwerden.

宇宙の生成を。

Das Weltenwerden

宇宙生成は

offenbart sich

みずからを開示する

durch dich,

おまえを通して

O Mensch,

おお、人間よ

Wenn du redest.

おまえが語るならば。

 

 

「Aus der mysterien von Ephesus」

エフェソスの秘儀より

ルドルフ・シュタイナー

 

 

 

※この文章は『テルプシコール通信』No.162に寄稿したものに加筆、訂正したものです。