光の風の前夜

 

 

 

1.記号化される内面 

 

symbol、sign、ikon、スタンプ、絵文字、、、古代から現代に至るまで、人類はさまざまな「記号文字」によって、精神的、文化的なコミュニケートをなしてきたが、かつて、現代ほど「記号文字」が商品化され、資本主義経済と結びついた時代はなかっただろう。SNSが世界的に普及し拡張した2010年代以降、人間の「内面/意識」の記号化、フィクション化、商品化はまばたく間に進んだように思う。そこでは、現代社会にとって安全で有効的なツールとして、人の「内面」が外化され、量産され、消費されている。血も体温も苦痛もなく、息も声も介在せず、容易に「内面/意識」を記号化することは、資本主義社会のコマーシャリズムのうちに、人間の「生」を商品として取り込む格別のファンクションとなった。

 

現代においては、本来、人間の「内面」をともなう生きた固有の現実が、TwitterやFacebookなどの普及とともに、ネット上のタイムラインに可視化され、同時にSNSによる新たなコミュニケート形態が生まれている。しかし、たとえば「スタンプ」などのような擬似感情によるそれは、「記号」という「外観」と、人間の「内面/意識」を無意識裡に同調化させ、現代の社会のなかに、 ある種の戯画的な「死せる交流」を増殖させることにもなるだろう。そのような「内面の記号化」によって、常に変動する気象の ような「生」の内的な感情体験を、現代人は固定化し、簡略化し、無機化し、平均化してゆくが、反対に、記号化しきれない内的領域に対しては、その意識化/言語化を放棄し、より無意識の領域が増大されているように思える。こと現代の東京の街などでは、内面をフィクション化させた身体、あるいは、リアルを失った身体とでも言うべき、「身体なき身体」が、インターネット上を徘徊する意識のように、街の風景のなかを浮遊霊となって通り過ぎゆく光景をよく眼にする。 はたしてこの先、記号化され、商品化され、フィクション化された「内面/意識」の行き着くところとはいったいどのような世界なのか。人間の「内面」が商品として消費され、形骸化した身体の未来とは、もしかすると、まるでスペースデブリ(宇宙ゴミ)のように虚構空間を漂泊し続ける、故郷喪失者の標なき道、「身体の亡霊化」の道であるかもしれない。

 

 

 

 

 

2.虚の文明 

 

「なぜ、あとを振りかえるとき、われわれは人類の道程に、歴史の大変動、カタストロフィーを目にするのか、崩壊した文明の痕跡を発見するのか?実際、これらの文明になにが起こったのか? なぜこれらの文明に息吹きが、生への意思が、精神的力が不足していたのだろうか?(中略)歴史過程の精神的側面をまったく考慮しなかったために、われわれはふたたび新しい文明の消滅の縁に立っている、と私は確信している。」(アンドレイ・タルコフスキー「映像のポエジア」鴻英良 訳)

 

1986年、ソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーが、自らの死期を予感しつつ書いたであろうこの言葉のように、いずれは、現代の「虚の文明」も崩壊するだろう。そのとき、生きながらにして身体を喪失し、スペースデブリのようにさまよう現代人の魂にとって、はたして「死」とは何であるのか、と思わずにはいられない。しかし、もはやカタストロフという観念すらアナクロニズムであり、すでに世界はとうの昔に、文明も肉体も消し去り、滅び去っているのかもしれないのだが・・・。

 

「虚の文明」とは何か?

 

思うに、現代とは人間の「内面」の形骸化とともに、「虚偽」が「真実」に取って代わった時代であり、そこでは、人間の身体から「実」が失われ、「虚」の身体が拡張の一途を辿っている。そしていま、現代人にとっては「虚」が身体のリアルになりつつあるように見える。政治においても、経済においても、メディアにおいても、SNSにおいても、「生」の記号化・フィクション化・商品化とともに、「虚」が「実」を侵蝕しているが、しかし、この「虚実」とは、近松門左衛門の云う「虚実皮膜」とは異なった世界であるだろう。現代におけるそれは、人間の「身体」「生命」「内面」が欠落している「フィクション」であり、「声」「息」「言葉」の喪失した「反生命」であり、人間の内なるモラルが根こそぎ廃棄された「虚の文明」に思える。

 

 

 

 

 

3.シリコン時代

 

人材派遣会社などで、通称「バイトくん」と呼ばれる多勢のアルバイトと、その現場を取り仕切っている社員との関係に、 ときおり私は、なぜかナチスの強制労働の幻影を見てしまうことがある。そもそも「アルバイト」という言葉は、ドイツ語の 「労働」を意味する「Arbeit」に由来するが、ナチス政権時代、強制収容所で「Arbeit macht frei(アルバイト マハト フライ)」=「働けば自由になる」というスローガンが掲げられていたことはあまり知られていない。

 

また、現代、様々な会社でアルバイトの賃金管理のために用いられているタイムカードは、もともとナチス時代のドイツにおいて、米国企業のIBM社が開発、普及させたパンチカードがその前身であるといわれている。まだコンピューターもない当時、六百万人ともいわれるユダヤ人を強制収容所で管理するために、このIBM社のパンチカ ードが活用されていたのであり、そのシステムが現代のアルバイトの賃金計算を管理するタイムカードにも応用されているのである。

 

ところで、このアナログ機械と、現代のスマートフォンやPC機器に共通している素材として、「シリカ/シリコン」と呼ばれる半導体がある。この物質は、現代のほとんどすべての電子機器の基盤になる部品に使われている素材であり、またPCの CPUなどにおいては、そのデータを管理するためのもっとも重要な素材となる。だから、一般的に呼び習わされている「高度情報化社会」や「グローバル・ネットワーク」とは、つまるところ、このシリコン素材の特性から生まれた、インターネットによって成り立つ文明であるともいえよう。そして、このインターネット空間とは、プログラミング言語と呼ばれる無数の記号体系によって作成されているのだが、このプログラミング言語の基盤となるのが、「シリコン」という半導体による電気の導体・絶縁体の両特性からなる「1」と「0」の世界なのである。

 

ここで唐突にも思い起こされるのは、ユダヤ人の詩人パウル・ツェランの「死のフーガ」という詩の一節である。

 

明け方の黒いミルクぼくたちはそれを晩に飲む

ぼくたちはそれを昼にそして朝に飲むぼくたちはそれを夜に飲む

ぼくたちは飲むそして飲む

ぼくたちは空中にひとつの墓をシャベルで掘るそこは横たわるのに狭くない

ひとりの男が家に住みかれは蛇たちと戯れるかれは書く

かれは書く暗くなるとドイツへ君の金色の髪マルガレーテ

かれはそれを書くそして家の前に歩むそして星たちがきらめきかれはかれの犬たちを口笛で呼び寄せる

かれはかれのユダヤ人たちを口笛で呼び出し地面にひとつの墓を掘らせるかれはぼくたちに命ずるさあダンスの曲を奏でよ

(パウル・ツェラン「死のフーガ」中村朝子 訳)

 

この詩は、ツェランの強制収容所での実体験が主題となっているが、そこでは「黒いミルク」という、逆転し、矛盾した「黒」と「白」、あるいは「死」と「生」の無機的な光景、「金色の髪」、「灰色の髪」という「ケイ素」を多く含む人体部分、そして、空中に掘られる「墓」という奇妙な「虚」空間が多出する。 ちなみに「シリコン」は「ケイ素」とも呼ばれ、地球の地殻中にもっとも多く含有されている元素であり、この「ケイ素」は、人体を構成するミネラルの必須元素のひとつでもある。

 

これは私の仮説に過ぎないかもしれないが、現代のインターネット空間にも通ずる「1」と「0」の無機的世界、あるいは、生命の墓場である中空の「虚」空間、それは、「シリコン(ケイ素)」という元素を通して、IT企業からナチスに至るまで、CPU、タイムカード、印字機、電卓、毛髪、水晶体という表象と符合しながら、近現代の一つの徴となっているように思える。そして、あたかも現在の地球上の文明は、これらの無機的な表象と結びついている「ケイ素」を通して生み出される、「虚」の空間に取り巻かれているように見える。

 

私はここで現代ネット社会に対する文明批判をしたいわけではない。ただ、この時代を生きる身体を知り、現在すでに胚胎しているであろう身体の未来を読みたいと考える。そのような観点から現代を捉え直してみると、この「シリコン(ケイ素)」が生み出す文明的、現象的側面だけではなく、その身体的内実へと意識を向けることが必要であり、それは「虚」空間と結びついている「ケイ素」を意識化する作業であると直観する。もっと具体的に言うならば、人体内における「ケイ素」部分の意識化である。

 

私は、文明や時代というものを「身体性」として捉えるとき、それを身体の外に存在しているものとしてではなく、みずからの身体の内におびきよせることができると考える。そのとき、時代や文明と、「身体」との関係性は、もはや「世界/時代/文明の中にある身体」ではなく、「身体の中にある世界/時代/文明」として裏返され、逆転するだろうと予感する。そして、その裏返された身体の内で、「世界/時代/文明」の「内面」が立ち現れ、現代の地球を取り巻いている「虚」の空間、「身体なき身体」との真に内的な対峙がはじまるであろうと。

 

 

 

 

 

4.炭素とケイ素

 

これは中学校の教科書にも載っていることだが、人体を構成している要素は、「水分」とその他の「固形部分」に大きく分類される。そしてその「固形部分」は「有機物(炭水化物・タンパク質・脂質)」と「無機物(ミネラル)」からなり、その「有機的成分」としてもっとも多く含まれる元素が「炭素」である。「ケイ素」は、「無機的成分」として、おもに、毛髪、爪、歯、水晶体、皮膚の表皮、骨格形成時などに多く含まれる元素といわれる。整形や豊胸などの液体シリコンも、このケイ素の化合物から作られているが、いったい、人体内におけるこの「ケイ素」を意識化する作業とは、いかなることであろうか?

 

たとえば、人体において「ケイ素」を多く含んでいる「水晶体」のような感覚器官の働きに目を向けてみるとき、私は、古代ギリシャの哲学者プロティノスの言葉、「もしもこの眼が太陽でなかったならば、なぜに光を見ることができようか」を想起する。ゲーテはこの言葉を意訳し、「われらのなかに神の力がなかったならば、なぜに神的なるものが心を惹き付けようか」と続けたが、ここには人間と宇宙の照応した世界観、人間の「知覚活動」の本質に対する認識があるように思う。

 

そして、この観点をさらに推し進めるならば、次のようにも言えるかもしれない。

 

「もしも人間が言葉をもって生まれて来ないならば、なぜに言葉を聴き取ることができようか」と。

 

日本の言霊学とも通じる「ヨハネ福音書」冒頭の次の文言は、ルドルフ・シュタイナーによって「オイリュトミー」が創始された時から、その根幹に谺し続けているもっとも重要な言葉であろう。

 

「太初に言葉あり、言葉は神と共にあり、言葉は神なりき。この言葉は太初に神と共にあり、よろずのものこれに由りて成り、成りたるもののうち一つとして之によらで成りたるはなし。」

 

言葉と人体の結びつきからなるオイリュトミーの身体技法において、「ボカーレ(母音)」の響きは、人体内における有機成分である「炭素」と深く結びつく。そして、人体内における無機成分である「ケイ素」の意識化に深く関わるのが、「コンゾナンテ(子音)」の響きである。

 

 

 

 

*初出『研究と批評 季刊ダンスワーク77 2017春号』(ダンスワーク舎)