「アーカーシャのうた」に寄せて

第二次世界大戦末期、昭和十八年の学徒出陣によって徴兵され、北部沖縄戦を体験した祖父・鯨井巖が、晩年になってその封じられた記憶を掘り起こすように書き遺した書物『一学徒兵の北部沖縄戦回想録』。初めてこの回想録を読んだとき、極力憶測を排するように書かれたその叙事的な語り口に、私はこれまで感じたことのない戦慄を覚えずにはいられなかった。想像を絶する沖縄戦の過酷な描写も去ることながら、むしろそのあえて客観的に綴られている行と行の間、一文字一文字の隙間から立ち現れてくる「声なき声」が、私の身体の中に突如として語りかけてくるのを感じたからである。私は全身を経巡っている血液の細胞が一斉に震えだすのを感じた。祖父がそこに書き遺した言葉以上の、語ることのできなかった歴史が、この身の内奥に突然秘密を打ち明けてきたかのようだった。それは戦後七十年以上経った現代に、透明な意志を持って何かを語りかけているように思えた。

 

私が二十一歳になるとき、祖父は七十九歳で他界した。生前、私は祖父に穏やかな印象を持っていたが、「巖」という名前の持つ厳格なイメージも相まって、私の中の祖父はどこか硬く黒いオーラを放っている。

私が生まれたとき、両親は私に「鯨井 環(タマキ)」と名付けるはずであったという。当時、その名を祖父に伝えると、祖父は無下に拒んだそうだ。両親はその理由に釈然としなかったというが、しかし、そのときの祖父の反対によって今のこの名になったという経緯を、私はこれまで何度か話しに聞いたことがあった。

2001年、祖父が他界し、この回想録が出版されたとき、初めてそこに「玉城(タマキ)」という北部沖縄戦で戦死された当番兵の名前を眼にし、それが祖父と縁深い方の名前であったことを知った。もし私の名前が「タマキ」と名付けられていたなら、今、私はこのような人生を歩んではいなかっただろう。「タマキ」と「ケンタロウ」。二つの人生。祖父の沖縄での体験は、私の人生の始まりにも大きく影響を与えている。

 

終戦後、日本が経済大国へと復興の道を突き進んでゆく時代、語ることもままならず、形容されることすら拒絶する北部沖縄戦の実相を、祖父はその心の奥底に仕舞ったまま何を感じていたのだろう。一人のサラリーマンとして、核家族の父として、一体どんな想いで昭和から平成の世を生きたのだろう。日本の戦後史において、ぽっかりと口を空けた底知れぬ奈落のようなその記憶の暗黒を、誰も測り知ることはできないだろう。

 

この回想録を通して祖父の記憶と向き合いながら、舞台作品として創作することに、私は正直、躊躇いがあった。「裏の沖縄戦」とも表されるあの北部沖縄での実際の出来事を作品として虚構化してしまうこと、客観化してしまうことへのそれは抵抗感であったが、そもそも、いかなる表現手段を持ってしても、作品化は到底不可能なことであると思われた。

これまで、日本の戦後史においてほとんど語られてこなかった北部沖縄戦の実態、現在に至るまで封印されてきたその暗部に、祖父の回想録は触れている。その極限世界を前にして、一体どんな表現行為が成立しうるというのだろう。

それでも、私を衝き動かした理由の一つには、沖縄戦を生き延びた祖父の封じられた記憶が、いまを生きている私たちにとっていかに深く結びついたものであり、決して無関係なことではないということ、そして、私の生命の血脈の時間の流れの中で、あの時から固まったままでいる記憶を、現在を生きている私たちがどのように受け止めることができるか、という、私的な、切実な問いであった。

 

この地上で一人の人間が歩んだ固有の人生。そのかけがえのない一回性のなかで、過去から未来へと受け継がれてゆく記憶があり、命がある。全ての人の身体の中には、親の身体があり、その親の親の身体があり、さらにその先祖の身体がある。三世代という時の流れのうちにある業(カルマ)とでも呼びうる、身体の中の血に刻印された記憶。過去は、地層から発掘された化石のように死んで固まってはいない、と私は思う。過去は、身体の中では常に現在形なのだ。 

 

この「アーカーシャのうた 鯨井巖 著『一学徒兵の北部沖縄戦回想録』」は、沖縄戦を生き延びた鯨井巖の記憶を辿りながら、それぞれの人生の中で邂逅する歴史を、それぞれが自らの生命に担い「未来に昇華されてゆく過去」へと向かってゆく舞台である。

そこに立ち会ってくださる方々、そして今は亡き人々の御霊、私の身体の中の祖父の「声なき声」とともに。

 

鯨井謙太郒

 

 

 

 

 

*「セッションハウス2019 アニュアルレポート」への寄稿文を、今回新たに書き直したものです。